身体が変化し始めると、今まで見えなかった(存在すら意識できなかった事柄)ことが、ぼんやーーりでも見えてくるんですね。
2年ほど前、オーナーが話していた内容をふっと思い出しましたので、みなさまにもお裾分けです。
題名にある通りに「“何か”に幸せにしてもらおうとすると...」
どうなると思いますか?
各所でいろんな軋みが発生するんです。
当事者はその軋みの原因に気が付かないんです。
その一つとして、今世間の話題である選挙。
投票するのは良いと思います。
しかし、「この人ならばより良い社会を作ってくれるはずだから、この人に投票しよう。」と考えるもんならば。
もう軋みが発生しています。
ここで“何か”に幸せにしてもらおうという精神が出来上がりです。
いやいや。今の政権に期待していないけど、国民の一員として、投票したら社会が変わるかもしれない!!1%の確率にかける!!
何ていう方も多いです。
私としては、まずこの思想が、自分たちの生活や社会を他人任せであることに気が付いていないと思うんです。
だって、より良い社会を作るまでに私は投票する以外に何かしましたか?
ただ名前を書いて投票箱に入れただけなんです。
投票者は何もしていないんです。
なのに投票したことで社会に興味があり、まるで自分たちが社会を作り上げているような勘違いを起こしてしまうんです。
そして、その1%にかけるくらいならば、自分が主となって行動を起こした方が、”そのために何をやったか?”をきちんと目視できてずっと信頼できる。
様々なものが“何か”に変わります。
昇格したら、幸せ。
親が長生きしてくれたら、幸せ。
好きな彼と結婚さえすれば、幸せになれる。
子供が産めれば、私は幸せ。
では、それが叶わなかったら?
努力が足りなかったから叶わなかったの?
叶わなかったら不幸なの?
私は違うと思うのです。
“何か”という自分以外の存在に幸せにしてもらおうというマインド(思考)があると軋みが発生します。
期待ではなく、、、
幸せにしてクレクレと求めている精神。
この思考があると他人と自分の境目が曖昧になって、図々しくなります。
夫婦関係でもよくある話です(あんちゃんのお家ではそうでした。笑)
夫に大切にしてもらいたい!!
家族を優先してもらいたい!!
夫に(私の希望する形で)幸せにしてもらえない私は不幸。
違いますよね?
誰かに“幸せにしてもらおう”とクレクレ精神があるから軋むのです。
“「何か」が居なくても(無くても)私の価値は、基本的に変わらない。”
(byオーナー)
このオーナーの考え。今ならば、少しこの意味がわかります。
2年前は全く意味不明だったことが、少しずつ見えてきました。
私はBAのお仕事という肩書きがなくなりましたが、前も今も私の価値は変わりません。
心が健全だわ💖(この前段階でおそらく多くの人が離脱症状のような虚無感に襲われるかもしれません、でもそれが大事な一歩だったり!!)
追記:
一個前のラジオをお聞きいただくとわかると思いますが
オーナーの思想は、ひとつの物事をものすごーく俯瞰して考えるのが特徴。
人間関係すら俯瞰します笑
この男女間のお話も、時々話してくれるんですが、毎回興味深い笑
深堀したいわ♪
六角あんちゃん