⭐️お知らせ 療法家永田による個人カウンセリング Engage Meは、現在満席のため新規受付を停止しております⭐️
⭐️現在開講中の講座 Sculptured Love Chapter3 (特別講座Temptation 込) の配信は 10/16〜です。 お申し込みはこちら⭐️

「居場所がほしい」
という言葉を、よく聞く。
特に女性が、
「家庭以外にも自分の居場所がほしい」
「私らしくいられる場所がほしい」
「自分を必要としてくれる場所がほしい」
という言葉をよく耳にする。
私は この言葉に あまり共鳴しない。
もちろん、人とつながりたいと思うことや、
孤独から抜け出したいと思うこと自体は、とても自然なことですが。
でも私は、ときどきこの「居場所がほしい」という言葉にフラグが上がってしまう。
その「居場所」とは、
ありのままの私を受け入れ、承認し、満たしてくれる場所
という意味になっているから。
でも、少し考えてみると、これはずいぶん一方的な要求です。
自分は変わらない。自分は合わせない。自分は何も差し出さない。(もしくは絶対に損を出さないことをこだわる)
でも世界の側には「私を理解して、認めて、心地よくしてほしい」と求める。
居場所って、 本来そんな「私のために用意された受容空間」なのかい?
「私は何者か」を、いつまで考え続けるのだろう
下手な自己啓発や教育本を読んでしまうと 結構このトラップに引っかっている人が
ま〜〜〜〜〜多い。。。
よくある「才能を伸ばそう」という言葉もそうで。
「あなたの才能は何?」
「あなたらしさは何?」
「あなたが本当にやりたいことは?」
「あなたが輝ける場所はどこ?」
一見、「自分は類まれなる特別な人間感」が助長されて 耳馴染みはいいけれど
でも、自分自身を延々と観察してさ、
「私は何者なのか」
「私は何が得意なのか」
「私はどこなら輝けるのか」
「どの職場なら 私を理解してくれるのか」
と考え続けることを、私は危ないと思う。
なぜなら、それを続けるほど、世界(周囲)を見ているようで、
実際には世界を鏡にして「自分ばかりを見ている」から。
仕事に求められていることを見るのではなく、
「この仕事は”私”を生かしてくれるか」
その人が何を必要としているか を見るのではなく
「この人は”私”を認めてくれるか」
コミュニティを見るのではなく、
「ここは”私らしく”いられる場所か」
そして、しまいには
「ここは私の居場所か」
と考える。
これはSculptured Loveでも書いた
結構重い 自己肥大化の病だと思う。
世界の中心に「私・私・私」がどんどん大きくなっていく感覚。
自己の肥大化とは、自信満々になることではなくて。
自分の才能、自分らしさ、自分の可能性、
自分の幸福、自分の居場所――何を見るときにも「自分」が主語になってしまうこと。
「自分らしく生きたい」と言いながら、
いつの間にか周囲に
「私を見て、理解して、認めて、価値があると言って」と求め続けるようになってしまう。
ここまで落とし込んでみると
「自己肯定が大事」って やっぱり私にはよくわからんのです汗
自分の価値を 何かを指標にして 確認し続けなければ生きられない状態そのものが、
すでに「自分を見すぎている」ように思える。
私は価値がある。
私はこれでいい。
私は私のままで素晴らしい。
私には才能がある。
↑子供の教育でも 自己啓発本でも
ま〜よく見る文句で。。。ここから引き寄せっていう
いいものだけみよう、ワクワクしていよう なんていう「妄想」が始まる気が。。。
毎日そんなに「私には価値があるかないか」と確認しなくても、
仕事して
誰かの話相手して
困っている人に手を貸して
誰かとの口約束を守って、(全部書面にしなきゃいけないって、もう。。。笑)
目の前にあるものを少し良くする。
そうやって
自分以外のものにちゃんと関わっていたらいいんじゃないの?と思うのです。
自分を嫌う必要もないけれど、
「私は価値があるはず」と自分に言い聞かせることより、
今日、自分の手の届く世界に何を返せるだろう。
って周囲を観察していたら
自己肯定できているかどうかなんて、いつの間にかそれほど大きな問題ではなくなっている。
私には、そちらの方がしっくりきます。
自己否定から抜け出した先が、なぜ“自己肯定”と言う”自己で完結”しちゃってるの?
という違和感が残るんだ。この言葉を繰り返す大人たちに対して。
「HOMEの外」だけを社会と呼んでいない?
そして
「主婦だから社会に居場所がない」
という言葉にも引っかかります。
会社。
学校。
コミュニティ。
SNS。
こういう家庭の外にあるものだけを「社会」として数えていないか?と。
でも不思議なことに、そういう人ほど
その「社会」に対する文句はものすごく多い。
会社がおかしい。
学校がおかしい。
教育がおかしい。
SNSがおかしい。
地域社会がおかしい。
今の文化がおかしい。
今の若者がおかしい。
では、少し意地悪な問いをしてみたい笑
その「文化」をつくる役割を、会社や学校やメディアやSNSに任せきりにしているのは
私たちではないでしょうか。
社会がおかしくなった、と嘆きながら、
文化をつくる場所は「外」にしかないと思っている。
だから外の社会には文句を言うけれど、自分の手元にある小さな社会(家庭)については、
「これはただの家事」
「これはただの日常」
「これは社会参加ではない」
と無価値化していく。
むしろここに「現代の歪さ・不気味さ」があると思うのです。
文化形成を「大きな社会」に任せきっているからこそ、これだけ歪んでるんだ。
家庭で何を美しいとするのか。
何を食べるのか。
どういう言葉を使うのか。
年長者にどう接するのか。
子どもに何を伝えるのか。
季節をどう祝うのか。
お金をどう扱うのか。
人を家にどう迎えるのか。
困っている人にどう接するのか。
こういう小さな反復こそが、文化をつくっていて。
「私たちはすでに、小さな社会を預かっている」
のです。
あなたが独身なら、
「私はすでに、自分のまわりの小さな世界を預かっている」
でもいいと思います。
ここで大切なのは「預かっている」という言葉です。
「所有している」のでもなければ、「自分を満足させるために存在している」のでもありません。
家族、友人、仕事仲間、近所の人、住んでいる部屋、庭、店、教室。
自分が触れる範囲には、
「あなたの振る舞いによって、少し良くも、少し悪くもなる世界がある。」
という意味です。
食卓を整えることもそう。
友人の話をきちんと聞くこともそう。
子どもの前でどんな言葉を使うかもそう。
使った場をきれいにして帰ることもそう。(日本人は汚いままのフードコートのテーブルが耐えられない説ありw)
文化というと、私たちは何か巨大なもののような感じがするかもしれないけど。
でも国会議事堂とか テレビとか 学校でだけ作られているものではないよね。
むしろ人間が毎日繰り返している、
「こういうとき、私たちはこうする」
をなぞってるんでしょう? その蓄積が文化でしょ?(経験の蓄積)
家庭は「社会に出るまでの待合室」?
人間が最初に、
社会、
秩序、
文化、
愛情、
責任、
美しさ、
我慢、
助け合い
を経験する場所は 「家庭」
それなのに、そこをつくる仕事を
「社会参加以前のもの」として扱うこと自体がおかしい。
問題児がいたら
「家が変だもんね」
健全な子供がいたら
「家がちゃんとしているから」
ってよく言っているじゃないか😅
で、みんな経験上 育った環境がどうか
は、かなり大事な「人格形成」の核になるって
「知っている」でしょう?
家庭や、あなたのまわりにある日常の世界は、
「社会に出るまでの待合室」ではないし
「社会とは無関係な小さな檻」でもないし。
みんなHOMEというスタート地点から
出発し、
会社へ行き、
商売をし、
人間関係を広げ
次の家庭をつくる。
当然、家庭と社会はつながっている。
なのに、なぜ自分の預かっているその小さな社会を
「大きな社会」より後回しな位置に置き、その相互関係を断って考えるのでしょうか?
居場所は、消費するものではなく育てるものだって。
ここで「居場所」の話に戻ると😅
「私を受け入れてくれる場所はどこ?」
「私を理解してくれる人は?」
「私が輝ける場所は?」
「私の才能を発揮できる場所は?」
と探し続けていると、居場所まで一種の消費財になる。
ここは合わないな。
ここでは 求めていた評価をされないな。
ここでは本当の私になれない。
だから次へ行く。
でも、六角の講座(Sculptured Love)的に考えれば、
home や belonging は、そんなふうに完成した完璧な居場所があって(←妄想族)
それを 旅人のように彷徨いながら探し当てることではないのです。
世話をする。
責任を持つ。
何度も戻ってくる。
壊れたら直す。
人間関係を大切に続ける。
記憶と経験を積み重ねる。
そういう時間によって、
ただの「場所」が「私たちの場所」になっていく。
居場所だから大切にするのではなく、
大切にしてきたから居場所になる。
のです。
「私の才能」から出て「目の前の世界」へ
「才能を伸ばそう」と「居場所がない」 っていうセリフは
一見まったく違う話に見えるけど。
でも、私はずっと同じところに不気味さ😱を感じていた。
なにせ、どちらも度を越すと、
「私は何者?」
「私の才能は?」
「私らしさは?」
「私の可能性は?」
「私はどこなら輝ける?」
「誰なら私を理解してくれる?」
「私の居場所はどこ?」
と、どんどん「私」へ戻っていく。
※だから エニアグラムとか星占いは
その枠の中にいろ って話じゃないからね。
ということで、自己肥大化の病にかかりそうになったら
問いを変えることを勧める。
あなたの 心の健康のために!
・「私にはどんな才能がある?」
ではなく、
「目の前の世界へ、私は何ができる?」
・「誰が私を必要としてくれる?」
ではなく、
「私の手を必要としているものは何だろう?」
・「誰が私を必要としてくれる?」
ではなく、
「私は、目の前の人や場所に何を返せるだろう?」
・「私の居場所はどこ?」
ではなく、
「今いる場所を、私はどう育てられる?」
とね。
「私を見て、認めて、褒めて」から、
「私はここで何ができる?」へ。
そんなふうに、少しずつ視線を自分から世界へ戻してほしい。
根は外に向かって張るもの。根が伸びる方向を決めているのは?
自分を延々と観察し続けても、占いをやっても なかなか世界には根を張れません。
日常の自分も グラグラ。。。
なんで? 根は、自分の内側には伸びないからです。
人や土地や仕事や家庭や日常へ向かって伸びていくもの。
あなたの子供の才能も、 あとで形作られるものだよ。
才能って、
最初から心の奥に完成品として埋まっていて、
大人が発掘してあげる宝石のようなものではない
と私は考えている。
人に叱られてさ (友達のお母さんで怖い人いたでしょ?w)
誰かを助けた、励ましたっていう経験とか
うまくいかなくてやり直す とか
退屈なことを続ける とか笑。
そうやって 「世界ってこういう感じ」と何度も関わるうちに、
能力も好みも役割も、少しずつ輪郭を持っていくもので。
だから、子どもに
「あなたの才能は何だろ?」「何が好き?」「あなたらしさは?」と、
一生懸命 市場価値を見出そうとしてくる大人は「悪い大人」だ。気をつけて。笑
才能を見つけてから社会へ出るのではなくて、
社会と触れ合っていったら、その枝先に才能がなんとなく出現し始める。
他者あっての 自己形成だ。
私は、そのくらいの順番でいいと思っている。
Sculptured Loveについては こんな感想を頂いた。
「自分の居場所を探すより、自分のいる場所を育てる。」
という考え方が好き と。
なので、そこから発展させて 今回の記事は出してみました。
自分を受け入れ、承認し、満たしてくれる場所を探し続ける っていうのは ちょいと違うよ。
今、自分の手の届く範囲にあるものを少し良くする。
そこにいる人を大切にする。
受け取ったものを手入れして、次へ渡す。
そうして振り返ったとき、
ずっと探していた「居場所」は、
どこか遠くで自分を待っていたのではなく、
自分が手をかけ、責任を引き受け、愛着を育ててきた場所に、いつの間にか出来上がっていた。
そんなものだと思うよ。
六角だってそうですから。
私自身だって
才能を探した結果、今の仕事をしているわけじゃないです。全然。
目の前の必要に応えていたら、結果的にやっていることが これだけ増えちゃった(汗
だから今できていることの中には、
最初から「これは私の才能です」と自覚して始めたものなんて、案外ほとんどないです。
自分では思いもしなかった役割を渡されることがあります。
ねぇ それはとても ラッキーなんだよ。
そして、その役割を(めんどくさいと思いながらも)何度も引き受けているうちに、
「ああ、私はこれができる人になっていた」
って 後から気づくから。
煩悩にいちいち引っ張られず、自分の務めに精進する。
案外、人が世界に根を張るというのは、そんな地味なことなのだ
Bye🖐️ Shino

