「愚かな者ほど確信に満ち、賢明な者ほど疑いを抱いている」
― SNS時代と教育が抱える、見えにくい危機 ―
「この世界の問題は、愚かな者ほど確信に満ち、賢明な者ほど疑いを抱いている。」
この言葉が語られた時代には、SNSもアルゴリズムも存在しませんでした。しかし現代ほど、この言葉が鋭く現実を射抜いている時代はないのではないでしょうか。
私たちは今、かつてないほど多くの情報に囲まれています。ところが皮肉なことに、その豊かさは必ずしも人間を賢くしてはいません。むしろ現代社会は、「確信している人」が圧倒的に有利になるように設計されているように見えます。
なぜ「確信している人」が強いのか
SNSを開けば、「おそらく」「かもしれない」と語る人よりも、「絶対にそうだ」「神〇〇」「最強の〇〇」「これ一択」などと断言する人のほうが拡散されます。複雑な現実を丁寧に説明する人よりも、単純で分かりやすい正解の物語を語る人のほうが支持を集めます。
なぜなら、不確実性という不快感を嫌う人が多いからです。
「よく分からない」という状態は不安を生みます。しかし、「これが正解です」と言われると、人は安心します。たとえその説明が現実を単純化しすぎていたとしても、自信に満ちた物語は、人を強く惹きつけるのです。
その結果、現代のSNS空間では、知識や思考の深さよりも、「確信の強さ」が価値を持つようになってしまいました。
本来の知性とは何か
本来、知性とは複雑さに耐える能力でした。
- 「この問題には複数の側面がある」
- 「相手の言っていることにも一理ある」
- 「自分は何かを見落としているかもしれない」
こうした態度は、知的成熟の証です。
しかしSNSでは、そのような慎重さはしばしば「弱さ」「優柔不断」「日和見」と見なされます。結果として、人々はますます強い言葉を使い、より単純な説明を求め、より確信に満ちた人格を演じるようになります。
問題はSNSだけではない
そして、この問題はSNSだけの問題ではありません。
私たちの教育そのものが、長い間、「正解を早く見つける能力」を高く評価してきました。
学校では、「なぜそう考えたのか」よりも、(支給された教科書の中にある)「正しい答えを覚えたか」が重視されることが少なくありません。試験では、疑問を持つ能力よりも、すでに偏った見方しか持っていないテキストからの「模範解答」を再現する能力が評価されます。
優秀な人ほど陥りやすい罠
学校という環境では、多くの場合、「正解がある」という前提のもとで能力が測られます。そのため、学校で優秀な成績を収めた人ほど、「自分は正しく考えることができる人間だ」という自己認識を形成しやすくなります。
しかし、現実社会には、既存の理論では明確な説明がつかない問題が多く存在しています。同じような問題が一旦解決したように見えても、繰り返し繰り返し発生しています。
そして政治、経済、教育、人間関係、文化、価値観――それらは複雑に絡み合い、一つの視点だけでは決して理解できません。
それにもかかわらず、学校での成功体験が強い人ほど、自分の思考の枠組みそのものを疑う機会を持たないまま社会に出てしまうことがあります。
その結果、「自分は論理的だから正しい」「自分は勉強ができたから見えている」という感覚が、強固な確信(強烈なエゴ、自己認識)へと変わっていくのです。
本当に高度な知性とは
では、本当に高度な知性とは何でしょうか。
それは、答えをたくさん知っていることではありません。
- 「私は間違っているかもしれない」
- 「この問題には、まだ見えていない側面がある」
- 「自分とは反対の立場の人も、何か重要なことを見ているのかもしれない」
そう考え続けられる能力ではないでしょうか。
これからの教育に必要なもの
だから教育が育てるべきなのは、「自信のある子」だけではありません。
- 分からないことを「分からない」と言える子
- 自分の考えを疑える子
- 反対意見を恐れない子
- 自分の盲点を指摘されたときに、それを人格攻撃ではなく、視野を広げる機会として受け取れる子
そのような人間を育てることこそ、これからの時代の教育の最も重要な役割なのかもしれません。
愚かさと賢明さの違い
なぜなら、愚かさとは知識の不足ではないからです。
愚かさとは、自分は「盲点がない」と「確信」することです。
そして、その確信は決して能力の低い人だけの問題ではありません。むしろ学校で優秀な成績を収め、「正しく考える人」として評価され続けてきた人ほど、自らの前提を疑う機会を失い、気づかぬうちに強固な確信の檻を作り上げてしまうことがあります。
そして賢明さとは、多くを「知っていること」ではないと思います。
自分の知らなさを知り、自分の盲点を探し続け、自分の確信さえも疑い続ける勇気を持つことだと私は思っています。
Shino
