既存の電車から降りた後に広がる世界
私たちが「当たり前」として受け取っている説明は、実は
非常に限定されたモデルの上に成り立っていることがあります。
そこから少し外に出ると、見えてくる風景は大きく変わります。
1. 心臓は本当に“ポンプ”だけなのか
心臓は血液を全身に送り出すポンプである、という機械的な説明は非常に強力で分かりやすいものです。
しかし、末端の毛細血管レベルまでこのポンプ機能だけで全身の血液を導いていると単純に考えていいのでしょうか? またそもそも心臓の筋肉はどのようにして”ポンプ”のように見える動きができるのでしょうか?
心臓が単なるポンプであるというモデルは、 どこまで現実を単純化したものなのか という問いと、
そのほかに血液の「振る舞い」を誘導しているものは本当にないのか?という疑問を残します。
2. 細胞観察は“そのまま”を見ているのか
電子顕微鏡で見る細胞像は、固定・脱水・染色など複数の処理を経ています。
つまり電子顕微鏡で見るときは、「生きたままを見る」のではなく、かなり段階的に“固定された構造物”に変換していきます。 つまりそれは「生きた状態そのもの」ではなく、人工的な処理後に「再構成された像」です。
ではそこに映っている「合成結果」は、 本当に観察したかった対象そのものの姿なのでしょうか。
観察とは現実の“取り出し”ではなく、 翻訳や変換を必ず伴う行為 なのではないかという問いが生まれます。
3. 生体は単純な臓器の集合体なのか?
生体は個々の臓器の集合ではなく、全体が「ある法則の下に」同期して動く流体としてしか説明できないのではないかという問いがあります。
血流・分子運動・エネルギー伝達は個別現象ではなく、 全体として位相を揃えた一つの状態(コヒーレンス) として現れている可能性があります。
このとき、生体は部品の集合ではなく 状態そのものが振る舞っている系 として再定義されます。
4. 既存の説明モデルはどこまで現実なのか
科学は現象を説明する強力なモデルを提供しますが、それは常に 現実そのものではなく抽象化された枠組み です。
モデルが便利であるほど、私たちはそれを現実と取り違えやすくなります。
例えば 既存の教科書上の理論では、細胞の中には、ナトリウムポンプやプロトンポンプなど、 「物質を輸送するポンプ」があると説明されます。
このモデルはとても分かりやすく、
・ATPのエネルギーで
・イオンを汲み出し
・濃度勾配を維持する
というように、細胞を“部品を内蔵する機械のようなもの”として理解することができます。
しかし実際に細胞を詳しく見ていくと、少し違う側面も見えてきます。
・膜全体の電位
・周囲のイオン濃度
・水分子の動き
・タンパク質同士の相互作用
といった環境の中で、同時に影響を受けながら働いています。
ポンプは“存在物”でしょうか、それとも“状態の振る舞いの名前”なのでしょうか?あなたはどのように認識していますか?
5. 形は遺伝情報だけで本当に決まっているのか?
生物の形態は、DNAの情報だけで本当に説明できるのでしょうか。
私たちは一般に、
・DNAが設計図であり、
・その設計図に従って細胞が働き、
・生物の形が作られる
と理解しています。
しかし、ここには一つの素朴な疑問があります。
「細胞は、なぜ自分が身体のどの場所にいて、何になればよいことを知っているのでしょうか。」
詳細
例えば、人間の受精卵はたった一つの細胞から始まります。
そこから細胞は増殖を繰り返しますが、
・ある細胞は心臓になり、
・ある細胞は皮膚になり、
・ある細胞は脳になります。
さらに、
・指は五本になり、
・耳は耳の形になり、
・肝臓は肝臓の形になります。
また、生物には不思議な現象があります。
例えば、
・傷を負っても元の形に修復されること、
・切り離された組織が元の構造を再形成すること、
・発生の途中で多少の異常が起きても、最終的には同じ形に落ち着くこと、
などです。
これを見ると、生物は単に部品を組み立てているのではなく、
「目指すべき全体の形」を先に知っているかのように振る舞っている
ようにも見えます。
もしそうだとすれば、
形は部品の積み重ねによって生まれるのか。
それとも、
全体の形が先に存在し、その形に向かって部品が配置されていくのか。
という、より根本的な問いが現れます。
既存の電車から降りる、ということ
科学や常識は強力な移動手段のようなものであり、それに乗れば効率よく最短で世界を知ったような気になります。
しかし時に、その電車から降りることでしか見えない風景があります。出てこない”問い”があります。
そこに広がるのは、 隠されてしまった私たち人間の本当の姿を取り戻す道です。 世界と私たちの「間」にある関係性(meaning)もそうです。非常に歪められてしまいました。
”覚えろ”と言われた理論のままでプラスαして「こじつけしていく人」がこの世の大半で、その一部にとても悪い大人たちがいますが(汗)、 信じていた理論を捨てて、一旦振り出しに戻って考えた人というのも、この世界には少なからずいるのです。表舞台には出られないように細工されていますが。。。
陶芸家だって、 出来あがった作品が納得いくものでなかったら、自ら壊して、また一から作り直します。
そんな作業の繰り返しが 本当に 物事を探究するためには必ず必要なのです。
Shino
